ちゃんと考えた。比較もした。条件も並べた。それなのに、決めた後のどこかがすっきりしない。
合理的に選ぶことが正しい選び方だと思ってきた。感情で動くことを弱さと呼んで、数字にできないものは判断材料に入れない。そうやって積み上げてきた選択の中に、なぜかしっくりこないものがある。
嫌だな、という感覚。なんか違う、という引っかかり。それは非合理ではなく、頭より先に体が気づいていることかもしれない。
ミカとナオコは、4月1日の午前9時10分、合理と感情のはざまで話している。正しい選び方をしてきたはずなのに、どこかで置いてきたものがある気がする。そんな感覚から始まる会話です。
4月1日 9:10 AM〜合理と感情のはざまで〜
ミカナオコさん、感情で動いた方がよかったって、後から思うことありますか。頭で考えた結果より、直感の方が正しかったみたいな。



あるよ。子どもの習い事選ぶとき、費用対効果とか送迎の手間とか全部考えて決めたのに、子どもの顔が全然冴えなくて。最初に見学行ったとき、この子ここ好きそうだなって感じた方にすればよかったって思ったから。



合理的に決めたのに、大事なものが抜けてた感じですね。私も転職考えたとき、条件とか将来性とか全部並べて比較して、感情的な理由は非合理だって除いてたんです。



除いた感情って、何だったの。



なんか、あの会社の雰囲気が好きだなとか、あの人と働きたいなとか。数字にできないから、判断材料に入れちゃいけないって思って。



でも、そっちの方が本当に大事なことだったりするよね。私も合理的に考えてうまくいった記憶より、なんとなくこっちだなって動いた方がよかった記憶の方が多いかもしれないし。



合理って、正しい選び方だと思ってたんですけど、感情を切り捨てることで、何か大事な情報まで捨ててる気がしてきて。



感情って、情報なんだよね。嫌だなとか、なんか違うなとか、そういう感覚って、頭より先に体が気づいてることだから、非合理って言って切り捨てるのはもったいないのかもしれないよ。



もったいない、か。私、ずっと感情的になることを弱さだと思ってたので。



私も思ってたよ。でも、感情を全部排除して決めた結果が、なんか違うってなってるなら、排除したものの中に答えがあったのかもしれないよね。
「合理」としての価値観と向き合うとき
判断から感情を除くほど、選択は整っていく。でも、整った選択の中に「私」がいるかどうかは、また別の話です。
なんか違う、という感覚を「非合理だ」と言って切り捨て続けてきたなら、今あなたが感じているもやもやは、排除してきたものが戻ってきているサインかもしれません。感情は弱さではなく、情報です。それを使いこなすことと、感情に流されることは、全く別のことです。
あなたの「合理」という価値観はどこにありますか?
・何かを決めるとき、感情より論理を優先しがちですか
・合理的に選んだのに、後悔したことはありますか
・「なんか違う」という感覚を、最後に信じたのはいつですか
もし一つでも引っかかるものがあれば、ワークへどうぞ。








